ひとたび手を抜くことを覚えると、ヒトはそれに慣れてかつてできたはずのこともできなくなってしまうものです。まえがきも同じですね。
<学校>
とうとう大学祭がやってきました。対面形式での開催である点は去年と違います。どうにかこうなったことには安堵すべきでしょう。もし学生生活課がケチをつけてきたら、松明を掲げてステューデントセンターを包囲するところでした。大学側の職員を信用できずに就活の相談へ行くことを躊躇しているのも、学生生活課のクズ共と老害警備員のせいです。
対外部に当日の仕事はないと思っていたのですが、今年はちょっと違いました。対外部の2年生のひとりが福引を企画し、やっぱり景品は協賛品から賄われるので協賛品をよく知る我々が福引の担当になったのです。
本当にそうなったらよかったのに。
シフトを確認すると、なぜか私は福引に一切入っていませんでした。代わりに「外周警備」、「GS」、「パレード」、「教室待機」という未知の文字が並んでいます。どれも去年はなかった仕事です。それぞれの仕事内容について書いておきましょう。
「外周警備」とは、大学祭の真っ最中にわざわざキャンパス外に出て周辺を警備する仕事です。最初は駅との間で来場者を誘導して見守るのかなとか思っていたのですが、説明を受けてみるとまったく違うものでした。
キャンパスは僻地にありますから、近くには駐車場を備えた店がいくつもあります。そして、そこに車を停めて大学祭に来る連中がいるらしいのです。きちんと「自転車も自動車も停めるところがない、公共交通機関で来い」と告知はしてあるのですが、それでもです。
正直言って知ったこっちゃありません。義憤など感じません。ちょうど少し前に近隣でのライブ客の駐車場利用を拒否したファミレスの話がありましたが、あれで非難されていたのはライブ客が主であったはずです。今回もあくまで悪いのは客であり、主催側たる我々は告知をもって最低限の義務は果たしていると思います。
「地域のための大学祭」だなんて言い出したのは、いったいどこの馬鹿なんでしょう。弊学部が地域を扱うものだからさして疑問に思わずにいましたが、大学祭は学生のためのものです。本土のキャンパスはそんなもの掲げていないと最近知りました。学生と関係者以外シャットアウトしろとまでは言いませんし交流はおおいに結構ですが、地域の老いぼれ共に発言権はないはずですし、間違っても我儘を聞いてやる道理はありません。
1シフトには3ペアが配属され、それぞれ別のエリアに展開します。ふたつのエリアでは複数の駐車場を巡回しますが、残るひとつはあまりに僻地にあるのでひとつの駐車場のみを監視します。そして、店を利用せず大学の方へ向かう者があれば注意するというのが仕事の内容です。
なお、配布されたマニュアルによれば、シフト中は携帯端末の使用どころか私語すら禁じられています。昔に「やる気があるのか」と怒られた事例があったためだそうですが、そこを切り捨てれば済む話だと思います。そんな店があったのならぜひ教えて欲しいものです。対外部のブラックリストに入れて後輩にネガキャンします。
まぁ、結局は私語をしてもお咎めはありませんでした。駄弁ってヒットマンの警備員ごっこをして過ごしました。というか、それくらいしかすることがなかったのです。2日間で私が配属されたのはふたつのエリアでしたが、至極暇でした。怪しい車があったような気もしましたが、たぶん気のせいです。我々が来る前からありましたし。
ある時は去年まで広報局にいた先輩と一緒になりました。あまり話す機会はなかったのですが、後述するパレードのシフトがどんなものかという憶測について話している内に結構盛り上がり、有意義な意見交換が行われました。議題は女の服の好みです。去年、チアの演者たちを教室の上階へ送る時に、彼女たちが衣装のまま私の眼前で階段を駆け上がっていった話もしました。先輩は深い関心をもって聞いているようでした。
「GS」というのは、ゴミステーションの略です。なぜかはわかりませんが、大学祭の期間中のみはゴミの分別がより細分化され、専用のゴミ箱がキャンパス内に設置されます。当然、それを置いただけでは無視されますから、ゴミ箱の横で分別を呼びかけたりそれでも分別せず捨てられたゴミをわざわざ拾い上げて分別する役が必要とされたのです。
私が割り当てられたのは2回で、そのどちらも同じ場所に配置されました。一般開放されている学食の外だったものの、ほとんどの人は学食の中で捨てるので暇でした。また、賑わいのホットゾーンからも離れていて、通る者もあまりありません。
とはいえさすがにステージの音は幽かながら流れてきて、それがかえって賑わいの外側にいるという実感を生むのでした。話し相手はおらず、気の利かないことに椅子もありません。こういうところこそ、デジタル化が求められています。
「パレード」とは、キャンパス内で開催されるパレードの警備を行う仕事です。応援団、ダンサー、吹奏楽団の順の隊列に同行するのです。パレード防衛と聞くと嫌な思い出が蘇ります。「遊園施設」を流してくれたら許せます。
さて、そもそもなぜこのシフトが生まれることになったのでしょうか?その原因は、ダンサーたちにありました。
ダンサーは、チアガールみたいな服装をした女たちです。私には彼女らの演目をチアリーディングとバトントワリングのどちらと呼ぶべきかわかりません。ミニスカートで踊っていればチアなのかもしれませんし、棒を投げていればバトンなのかもしれません。そのどっちもしている場合の判断は無理です。とにかく、この原因は彼女たちでした。
同じパレードに参加する3つのグループ*1の内、彼女たちだけが撮影禁止を要求したのです。そのおかげで、我々は撮影禁止の看板を抱えて随行するはめになったのです。
ただでさえ人手が足りないのにまとまった人数を一定時間割かなければならないとは、これが経営シミュレーションゲームなら重めのマイナスイベントですよ。報酬もないですし。パレードに出てもらうにはこうするしかなかったのかもしれませんが、ダンサー側も我儘を言ってもいいのか考えてみてもらいたいものです。
最後の「教室待機」とは、これもまた名前の通りです。実行委員会が押さえている教室のひとつは、カラーコーンやポールをはじめとした諸々の備品倉庫として使われていました。各企画が使うものは準備中に倉庫から運び出され、本祭の間はここに置かれます。中継地点のようなものでしょうか。例えば福引企画なら、下位賞のいっぱいあって現地には置き切れない景品を置いておく感じです。
しかし、ほとんどの必要な物品はすでにそれぞれの場所で使われていますから、残っているのは使わないものか使う機会の限られているものです。それらの置かれた教室にひとり配置される訳です。
こんなところに盗みに入る者があるとは思えませんが、警備するにしても鍵を本部管理にすればいいだけだと思います。本部はすぐ近くですし、そう頻繁に開ける部屋でもありませんからね。
ここもまた、孤独な場所です。他のシフトに負けず劣らず意義を感じられない虚無に満ち溢れています。ちょうどステージや出店の方に窓が向いているため、その楽しそうな光景だけ見えるのがGSと逆ですね。
本祭中は、シフトのすべてがこれらで構成されていました。対外部の他の同期は福引に配置されたり対子供企画に配置されていたのに、この扱いの差はどこから来たのでしょうか。去年の大学祭では普段は縁がない他の局の委員や先輩と知り合ったのに、今年は孤独が強く感じられる年になりました。
福引にまったく縁がなかったことはありません。準備日にテントの設営を手伝いました。テントの作り方講座はどうせ縁がないとスルーしていたのに、人手が足りないせいかこんな末端でもテントを作るはめになりました。来年には忘れていることでしょう。
初日は、3つのシフトの虚無さを知ることになりました。外周警備で先輩とチアの服について議論したちょうどその後、パレードに配置されたのは面白かったですね。
パレードのシフトは、虚無どころかかなりの役得です。ダンサーを誰よりも近くから拝めるだけでなく、吹奏楽団の演奏も至近距離から聴けるのです。私は端末のカメラが弱いのでやめておきましたが、今年は全委員に記録のために撮影権限が与えられていたので撮影も自由です。しかも、これらすべてを合法的に行えるのです。
さて、先輩との意見交換会を終えた私は、時間が近づいていたのでパレードの開始場所へと向かいました。現地ではすでに参加者が最後の調整に勤しんでいます。バンドを投げ上げて落とすのはなんらかの儀式でしょうか。
本来、このパレードはステージ企画という部署の管轄です。指示を仰ぐと、我々は撮影禁止の看板を持ってパレード内のダンサーを四隅から囲うようなフォーメーションで随行せよとのことでした。これも含め最終確認をしていると、見るからに怪しい様子の中年男が「撮影はできますか」と声を掛けてきました。
今回、撮影できるのは①我々実行委員と②事前に申請して許可を得た者のみです。後者には腕章が配られているのですが、この男は持っていないようでした。この旨を伝えると申請はしていると返ってきたので、トランシーバー持ちが本部へ確認を取り始めましたが、その間にも何度も撮影できるか聞いてきます。
見た目で他人を判断するのはいいことです。他の人と様子が違うというのにはきっとなんらかの理由があり、それをわざわざ調べている余裕はないからです。外見や言動を取り繕わないのはあえてのことでしょうし、その点だけですでに警戒して然るべきです。「こうすれば周りと同じで溶け込めるのに、なぜわざわざそうせずにいるのか?」ということを警戒すべきなのです。つまり、こいつは特に縁者ではないけどダンサーを撮影したいだけの一般通過男性であると私は結論づけました。
本部からの返事がすべてを明らかにしてくれると思っていたのですが、なぜか男はいつの間にか姿を消していました。本部やステージ企画の連中にしても、申請があればよし、なければ要注意人物の特徴を整理して我々へ警戒を厳にするよう通達するなり本職の警備員へ応援を要請するなりの対応を取るべきだったと思います。しかしまもなく時間が来て、パレードは始まってしまいました。
私の配置は左後方でした。AT-STよろしく首を振って随行していると、さっきの男がいました。なぜか最前列でしゃがみ込み、ラジオのような機械を持っています。ローアングルから盗撮しているのかもしれませんが、今は何もできません。せめてダンサーとの間に割り込むよう努めました。
その後は上述した通りです。至近距離での生演奏と演技を鑑賞できるのを役得と言わずしてどうしますか。こういう仕事でもなければパレードに参加することもないでしょうし、いい経験でした。ダンサーは行進しながら演技をするのですが、バックステップも挟んでくるのでどれくらい近づいてもいいのかがわかりにくかったですね。
道中、何人か撮影している者を見かけました。腕章持ちはよしとして、腕章がない者もいたのですが、参加者の友人一同っぽいそぶりだったので不問としました。どの道、私にできることはありません。
その後、GSへ行きがてら福引の様子を見に行くと、後輩たちが働いていました。いつもと変わらない顔ぶれではあれど、ここにはヒトがいます。仲間と働く喜びは、希少ながら存在するものです。私の欲しかった「ザ・文化祭」の概念も、仲間と働くことが大きな部分を占めていますからね。
それなりに忙しかったようなので話したのは2年生の後輩とだけでしたが、彼女は今日ずっとここにいるとのことでした。他の人々も似たり寄ったりのようです。椅子があるので疲労はある程度緩和できるかもしれませんが、それでも負担はあるでしょう。
ちょうど、GSの前任者が広報局の同期だったので、この者に金を渡してお使いを頼みました。これで飲食物を買って、私の代わりに差し入れてもらうことにしたのです。休憩時間に頼むのはちょっと申し訳ないですが、駄賃として何か買ってくれて構わないと申し添えたのでそう悪い話ではないはずです。
後になってわかったことですが、彼は福引のテントに4人いると確認してコンビニへ行き、肉まんを4つ買ってさらに自分用にピザまんを買いました。ところが、戻ってみればひとり増えており、彼はピザまんも差し出したとのことです。いい人ですね。
初日はこんな感じで終わりました。後輩を連れてサイゼリヤへ行こうとも思いましたが、人が集まらず同期ふたりとラーメンを食べて帰りました。そう焦らずとも、メインは明日です。
2日目も変わらず福引はありません。またもや朝から外周警備でキャンパスから追い出され、相棒だった同期と話しながらキャンパスへ帰投していると、後輩から電話がありました。私の次のシフトは休憩だったのですが、シフト変更で後輩と一緒にステージ担当になったから急いでくれとのことでした。
1日目の夜にステージ企画の責任者から全体へ連絡があり、①今日のパレードでは多くの無許可撮影を許す結果となった、②明日は大幅に人員を増強して対処すると通達されていたことを思い出しました。私と私の休み時間はその犠牲となったのです。
いったいどうやって調べたのでしょう。苦情が来たか、それとも誰かを捕まえたのでしょうか。今日もチアだかバトンだか、もしくはその両方のパフォーマンスがあります。看板を増やしたところで何がどう変わるのかはわかりませんが、ダンサーと一般通過男性のおかげで朝から出店へ行く計画は露と消えたのでした。
ステージへ出頭すると、ちょうどまもなくダンサーがパフォーマンスを始めるところでしたが、看板を持ってステージ近くで警戒しているとすぐに終わりました。シフトは1時間刻みなので、まだ結構時間が残っています。
責任者に指示を仰ぐと、次のお笑いのステージも撮影禁止なので引き続き看板を持っていてくれとのことでした。ステージ付近では配置転換が行われ、客のエリアがぐっとステージ近くまで寄せられていました。私が配置されたのは、なぜかそのエリアとステージとの間に設けられた1畳を横にずっと並べたくらいのスペースです。一段高いステージがあって、そのスペースを空けて客席(立ち見ですが)がある感じです。
しかも、配置指示はその真ん中です。図らずしてセンターになってしまいました。おとなしくそこで看板を持ってしゃがみ込みます。他の委員がステージの脇の方に固まっているのが見えますが、私のようにステージ前へ配置される者は誰一人としてありません。人に囲まれて孤独な戦いが始まります。
最初は学生芸人によるステージで、次にプロの芸人が出演するステージでした。そのどれも撮影禁止らしく、私はずっと同じ場所にしゃがんでいました。この撮影禁止増員措置はダンサーのためではなかったんですか?こんなところでしゃがんでいても、観客の目はみんなステージの上を向いているのであまり意味はないと思います。少なくとも人を置く必要はないのでは?
ステージ脇の委員に目を向けても、「かわいそうに」みたいな視線を返されるだけです。ここ、本職がいなくていいんですか?しかも、次のシフトが始まる時刻になっても交代を寄越してはくれませんでした。次の外周警備の相棒からの連絡でポケットの中では携帯が震えているものの、さすがにここで取るのはどうかと思ってスルーせざるを得ませんでした。
今回招かれた芸人はそれなりに有名なようでした。疎い私の認識は信用できませんが、知ってるという者も何人かはいたのでそうなのでしょう。漫才中の彼らにきっと誰よりも近い場所にいながら、ステージに背を向けていたので顔は見ませんでした。ただ彼らと観客の声だけが聞こえてきます。
脚がどうしようもなくしびれてきた頃、ステージが終わりようやく解放されました。外周警備へはゆっくり歩いて向かい、すぐにゆっくり歩いて帰ってきました。今もなお怒られていないので問題ありません。
その後にも外周警備がありましたが、ちょうどパレードと重なっていました。4年生の男が何人かそちらへ回された結果、残されたのは3つの派遣先に対して3年の男が私含めふたりと2年の女がふたりでした。これがどう割り振られたかは言うまでもないでしょう。ジェンダー云々などクソ喰らえな私ですが、このことに不満はありません。外周警備をすること自体が許せないだけです。あと、私もパレードに行きたかったです。
今度はひとりで駐車場を散歩します。ひとりで過ごす時間はずっと長く感じて、いるかもわからない今から来る奇特な者を探しました。チケット争奪戦のリロードもそうですが、こういういつ来るかわからない(なんならそもそも来るのかもわからない)ものを待つのがとても苦手です。集中力が続きません。
「休憩時間はウェア*2を脱いで大学祭を楽しもうね!」と公式発表にはあったはずですが、ダンサーのせいで休み時間は午後の遅い時間でした。出店の食べ物は売り切れ、展示のスタッフはだれている頃です。まぁこのだれこそが文化祭という感じもしますが。
出店は諦め、友人のいる写真部と漫画研究会へ行きました。漫画研究会では部誌とイラストを拝見したのですが、どうやら波長の合いそうな感じがします。超てんちゃんの絵はこの感覚をさらに強めました。
この日最後、つまり今年最後のシフトはあろうことか教室待機でした。大学祭の鳳が近づき、委員たちも迫る撤収作業に備える中、私はひとりぽつんと取り残されて窓から外を眺めていました。ちょうど、病室から外で楽しそうに遊ぶ同年代を見る病弱な子供になった気分です。
撤収に使う物品も保管されていたのでたまにそれらを取りにくる者もあったのですが、私が手伝うほどのことでもないので出番はありません。こんなところにいるくらいなら撮影禁止の看板と一緒にしゃがんでいる方がまだマシです。
そういえば、今回はカーテンコール*3というものがありました。2日目の最後に行われるイベントで、各部署ごとにステージへ上がって10秒くらい話してお辞儀をするのです。委員長や局長クラスだけでなく全委員に参加権がありました。
まぁ、厳密な全員ではありません。一部の仕事に配置されている委員はそれを優先しなくてはなりませんでした。かわいそうに、福引の最後の方に配置された者も不参加を要請されていました。閉会間際にもっとも忙しくなると見込まれたからです。結果的に正しい読みだったとはいえ、やはり個人の犠牲でこの祭りは成り立っています。
教室配置はそれらの仕事として挙げられてはいませんでしたが、いくらいてもいなくても変わらないだろうとはいえ抜けてもいいのかわからずにいました。すると全体グルに連絡が入り、カーテンコールは中止されるとのことでした。
時間が押していたからかもしれませんし、ちょうど閉会間際を狙ったかのように降り出した雨のせいかもしれません。行くべきか否かや何を話すべきかを考える必要はなくなりましたが、こうして私は現役最後の大学祭をひとりぼっちで終えたのでした。
撤収作業はステージエリアに割り当てられました。まず周辺のテントを解体し、カラーコーンや机といった備品を倉庫へと運びます。それぞれの備品には番号が与えられており、それによって使用企画や現在地が管理されます。すべての番号の備品があることを確認して、私はカラーコーンのポールを抱えて倉庫へと向かいました。
道中、正門付近のテント(ここではパンフレットが配布されていました)にいたミラージュから、ついでにここのポールも持っていってくれないかと頼まれ、それも抱えました。なお、備品を管理する総務部が番号を取り違えて誤った番号のものが割り当てられており、そのことを告げるよう言われました。
倉庫には総務部の者がいて、どこからどの番号を運んできたのかを管理しています。ステージから持ってきたものは問題なく通りましたが、案の定正門から持ってきたポールは止められました。事情を説明するとその下級生らしき女は司令部と連絡を取り始めました。
トランシーバー、欲しかったですよね。コールサインを決めて悲惨な現状報告をしたり、必死に助けを求めるも誰一人として反応してくれなかったり、助けを求める下級生のところに颯爽と登場したりしたかったです。「CP、CP、こちらアルファ9!客の一斉襲来を受けて処理が追い付かない!増援を送ってくれ!オーバー!」「<ruby><rb>だめだ</rb><rp>(</rp><rt>ネガティブ</rt><rp>)</rp></ruby>。増援は出せない、現有戦力で対処せよ。オーバー」とか、「CP了解、こちらHQ。各班、余剰戦力を救援に向かわせろ。オーバー」みたいに。
さて、司令部からの声は私にも漏れ聞こえていました。どうやらこの取り違えについては把握していたようですが、「入れないで下さい」との指示でした。手違いをしたのはそっちだというのに、まるでこっちが間違ってるみたいな扱いをして追い返し、一切カバーもしないというのはむかつきますね。
ちょうど帰るところで正門に配属されていた後輩と遭遇しました。正門の方に連絡がいったのか、ポールを回収しにきたようで、会えてよかったのでしょう。後は彼女らに任せ、ステージへと戻りました。
この頃には辺りがすっかり暗くなり、雨も依然として降り続けています。ステージ周辺には解体業者が到着しており、委員たちは業者が解体したステージの鉄パイプみたいなパーツをトラックへと運ぶ役でした。とても重いとまではいきませんが、とにかく数があって人は少ないので消耗する仕事でした。雨の中でというのもその疲労感を加速させます。
対外部の同期である上流階級も共にこの仕事へ配属されていたのですが、すっかり憔悴しきった様子です。聞けば、彼は対子供企画でストラックアウト(で合ってましたっけ?積み上げたダンボールにボールを投げて崩すやつです)を担当しており、ダンボールを積んでは子供に崩され積んでは崩されを繰り返す内に、その徒労感に潰されていました。そこにこの労働が重なってしまったのです。賽の河原じゃんと言ったら通じませんでした。賽の河原は一般教養に入らないみたいです。
ここには広報局とステージ企画班がいたはずでしたが、ろくに顔が見えず識別できませんでした。向こうもきっと私のことはわからなかったでしょう。曇ってろくに見えない眼鏡も外していたので尚更です。ある程度人数はいたはずですが、雨と疲労とで後半はほぼ会話もなく、よく知っていて判別できるほんの数名とだけ働いていたような気分です。
やっと最後の資材を業者のトラックに積むと、我々は何もなくなった現場を後にしました。屋外の大規模な撤収対象はステージくらいのものなはずですからもうみんなとっくに控室へ来ていると思っていましたが、思っていたより人はいませんでした。大変なのはどこも同じだったようです。
現役最後の大学祭であり、かつ初めての対面開催でしたが、去年よりもずっとひとりだった気がします。パレードはまだマシでしたが、ほとんどのシフトで私は賑わいの近くから隔離され、場合によってはキャンパスから物理的に隔離されました。大学祭なのにキャンパスにいないって何ですか。こんなの警備員の仕事でしょうに。
元来、私は限定に弱い性格です。ですから、せっかくの大学祭で何もしていないでいることが、大学祭の概念に触れずにいることがつらく感じるのです。こういう日なら、労働だって歓びたり得ます。たとえどれほど忙しくてヘビーでも、大学祭で仲間と働くことからしか摂取できない栄養素とか快楽物質とか、なんかそんなものがあるはずです(もっとも、これはすべてについて言えることです。例えば「文化祭で学校中が賑わう中、空き教室で過ごす」なんてのもなかなか強い概念ですよね。難しい問題です)。
全員の帰還を待ち、我々は控室から撤退しました。教室を使っていてもいい時間が終わったのです。屋外で再集合すると、恒例の記念写真撮影や上層部への労い、花束の贈呈が行われました。贈る者が贈られる者に、わかってはいてもあっという間でどこか寂しいものです。後輩と、対外部と、同期と写真をたくさん*4撮り、思い出のダメ押しに励みました。
なんと素晴らしき光景でしょう。なんと濃厚な文化祭濃度でしょう。何かクリエイティブなことをしたい、仲間と何かを作り上げたいという最初に思っていた形とこそ違えど、私が欲しかったものは手に入ったような気がします。
何かを作ることが好きなのは今も変わりませんが、結局は仲間と作業するその時間とか、締め切りが急速に迫ってくる時の生の実感とか、作ったものをみんなが褒めてくれた時の承認欲求とか、そんなものが欲しかったのでしょう。そして、それはこの対外部にだってあったのです。このために生きてきた、そう思える時間がここにはありました。
しかし、離れたところからその様子を見つめている者がいました。輪に入れないコミュ障ではありません。彼らは、大学に雇われた老いぼれ警備員共でした。
この後校門のあたりで委員会全体の3年生で記念写真を撮りました(撮り忘れていたので)が、「苦情が来るから静かにしろ」と言われました。どうせここの近くなんてぼろ家と寮くらいしかないじゃないですか。「撮りましょうか?」くらい言えないんですか?
内輪で楽しくやっている(しかも特別な日ですからね)大学生の集団に水を差すなんて、並大抵のふてぶてしさではありません。象の足裏くらい分厚い面の皮を引っ提げてよくもまぁのうのうと娑婆を歩いていられますね。学費が申し訳程度のクリスマスツリーの電気代として使われるより、こいつらの給料になっていることの方が気に入らないくらいです。
スポンジみたいに穴だらけの脳味噌には何を言っても無駄です。適当に流してとっとと打ち上げへ向かいました。この代になってから全体でご飯へ行くのは初めてです。
打ち上げはじつに楽しい時間でした。飲み放題だったので日本酒をストローで飲んでいると、2年生の女も飲めることが判明しました。以前、私がゴッドフィールドの修行(NPC対戦)をしていると話した際にひとりだけわかってくれた子です。やはり彼女には見所があります。
これまでは割とおとなしめだった同期も、今回はいい具合に治安が悪くなってきました。いい兆候です。タチの悪い酔い方をする者はいないけれど距離感は近くなっているのです。こういうのを待ってたんですよ。
楽しい打ち上げが終わった後、カラオケで二次会をしようということになりました。突如4年生もなぜか合流し、オールが始まりましたが、その間の記憶は飛び飛びな感じです。まともに歌えたかはわかりません。いつもそうですが。
気づくと、私は家の近くの方の駅にいました。慌てて簡易スキャンをしましたが、特に何か失くしている様子もありません。最後に覚えているのは、余った酒の缶をいつものように渡された時に後輩へ「いずれ君もこうなる」と告げたところです。あれはカラオケを出てすぐのことだったはずですが、ここへ来るには乗り換えをしなくてはなりません。誰かが送ってくれたのでしょうか?どうやって辿り着けたのか、未だに謎のままです。
次の日はなぜか授業がありましたが、家に帰りついた後10時間くらい寝たので当然出られませんでした。こんなところに置く方が悪いと思います。
これは僻地キャンパスの大学祭でした。一方、月末には内地キャンパスの大学祭があり、こちらは3日間開催ともう日数の時点ですでに差別されています。私としてはどちらも1週間くらいやってもいいと思っていますが、わざわざ格差を作っているところが問題です。ジェンダー平等の前にキャンパス平等を実現してください。
見かけた記憶はないのですが、内地キャンパスからの応援がこちらに派遣されていたそうです。そういう契約だったのか、こちらからも内地キャンパスに人員派遣をすることになっていました。私はディズニー愛好会の仕事で内地に行くことになっていたものの、シフトが被ってしまいました。
さらに、実習が重なるという不幸により愛好会で働けるのも最初の2日間だけでした。最終日の昼過ぎにはキャンパスを発って空港へ向かわなければなりません。準備日は愚かにもアルバイトを入れたせいで出られませんでした。
出店の手伝いははじめてのことでした。初日の朝に割り当ての場所へ向かい、テントや什器の搬入を手伝いました。すると、テントを設営する段階になってここの誰も組み立て方を知らないことが判明しました。ここは、僻地キャンパスの実行委員である私の出番です。
こちらでも役に立つとは思いませんでした。人手不足のせいで末端でも組み立てに携わらずを得ない我々ならではのスキルです。とはいえ頼られるのはやっぱり嬉しいもので、身につけておいてよかったとは思います。「僻地キャンパスの委員会に入れば誰でもできるようになります。人手が足りないから」と宣伝しておきました。
そうして開会した内地祭り。ここまで来る時の準備中に見ただけでもそうでしたが、とにかく規模が違う。出店の数を見ても、僻地の数倍は軽くあるようです。
肩に乗せたゼロの首に手作りの看板を掛けると、とてもいい感じです。そのまま宣伝のために歩いたり、会計作業に勤しんだりしました。当然、レジはありませんからミスしそうでずっと不安です。
そういえば、この本祭で後輩3名となかよくなりました。ひとりはミッキー推しの女で、次期サークル長と目されています。人当たりがよく、話していて楽しい子でした。残りのふたりは珍しく酒に積極的な存在で、私にも遠慮せず接してくれます。いい後輩そのものという感じがしますね。
ぜひ彼らとも打ち上げに行きたかったのですが、悲しいことに最終日は実習と被っていて、一足先に東京を発たねばなりませんでした。少し不完全燃焼的な、祭りの終わりです。