ウルリヒトゥレタス

皐月川納涼床

午前3時の35円

 それは十数センチメートルの距離から僕の右耳へと飛来して、脳髄を瞬く間に焼き尽くした。がんと強く殴られたような、それでいて優しく包み込むような感触が、僕の薄れかけていた意識を襲う。システムに侵入されたコンピューターみたいに、思考が侵されて書き換えられる。言葉の意味を理解するより先に、その感触が僕のすべてを奪った。甘い、甘い声。蕩けるような、痺れるような声。

 溶けたアイスクリーム。スプーンの頭を飲み込んだ白い池。飲み切った酒の缶。いつも飲むものより、ほんのちょっぴり強い酒。机に貼りついたメニュー表。散らばった10円玉と5円玉を載せたメニュー表。視界に映るものはそのどれも声とは関係がなくて、そのことが僕の思考をさらに混乱に追い込む。

 声の次には、吐息が来た。故意に吹きかけたのではなく、漏れた呼吸が届いたような感覚だったけど、先の声で混乱していた僕にはそれでも十分すぎるくらいだった。

 そこに鼻はないはずなのに、なぜか甘い香りがするとわかる。あたたかい息。人肌のような、すべてを委ねてしまいたくなるあたたかさ。無条件で安心できるあたたかさ。

 熱くはない。けれど、息が触れたところから瞬く間に僕の身体が熱を帯びる。酒のせいで、まともに動かない空調のせいですでに僕の身体はいくらか熱くなっていたのに、それ以上に熱くなるのを感じた。

 甘い声。甘い吐息。僕の思考と身体を麻痺させたもの。それでも、僕はかろうじて首を動かした。他のところは動かなかったけれど、声と吐息の元を見ずにはいられなかった。

 世界が回る。ぎこちなく動く世界。ぼやけたような世界。5円玉が蛍光灯を反射して、催眠術のように妖しく煌めく。ぐるりと回った先で、双眸が僕を見つめていた。どこかとろんとしたような瞳。きっと、そこに映る僕の瞳も同じはずだ。

 吐息が、今度は僕の口にかかる。力が入らなくて少し空いていた隙間から、僕の口に吐息が入り込む。熟れたような甘い味。喉に抜けていくその残熱。

 彼女のゆっくりとした瞬きで、金縛りが解ける。止まった時が動きだす。思わず身体を後ろに反らそうとしたけど、冷たい壁に頭がぶつかる。もう、僕に逃げ場はない。

 さっきよりも近い位置にある眼。睫毛を数えられそうなくらい近くにある眼。艶かしい唇。上気した頬。彼女の身体から来る熱波をはっきりと感じる。僕のそれとぶつかって、溶け合って、ひとつになって、僕たちを包み込んでいるのを感じる。

 その熱が、僕の身体の内側に入り込む。奥の奥、底の底。真っ暗な深淵の最深部に手を伸ばす、真紅の触手。粘液を滴らせてその痕跡をくっきりと残しながら這い進む、美しき蔓。

 僕の核にあったなにかが、それに呼応する。これは、彼女の核から来るもの。そして、僕の核にもあったもの。彼女から発せられた波動は、僕のすべてをいともたやすく通り過ぎ、核の中のただ一点へと正確に作用した。

 なにかが目覚める。まどろみの淵で己と同じ存在を感じとり、共鳴する。もう僕にはどうすることもできない。それは、言うなれば本能。果てのない欲望。ヒトが普段は押し込めている、獣の性。ヒトなら誰しもが生まれながらにして備える、根源たる衝動だ。

 獣が爪を伸ばす。僕の中を這い上がって来る。薄っぺらな理性の欠片を引き裂いて、表層へと侵攻する。進撃、そして蹂躙。

 もう、獣は僕の火照った皮膚のすぐ下にいる。好機を感じれば、今すぐにでも僕を喰い破るのがわかる。彼女のそれはすでに発現していて、僕の本能を待ちわびている。

 そして、彼女の唇が動く。舌が動く。そのどれも、僕にははっきりと見えた。音が届くよりも先に、本能がその意味を悪魔のように囁く。

 もう僕は抗おうとも思わない。痺れるような快楽を感じ取って、獣が、そして僕のすべてが歓喜する。聴こえるのは、思い返せばどこかでずっと望んでいた言葉。官能的で、甘美なる響き。

 

 

 

 

 

「ねぇ」

 

 

 

 

 

甘い、

 

 

 

 

 

「しよ?」

 

 

 

 

 

声がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

預言者たちの戦いが今始まる!

 

 

 

シュバババババババババ(両替1売る2乱弾武剣1暴れフレイル1エンゼルの帽子1貝殻2ドキドキ涙1)

 

 

 

 

 

(死神のカマ+冥矢 →僕)

 

 

 

 

 

 「もう一回やろっか」

 甘い、声がした。