ウルリヒトゥレタス

皐月川納涼床

無能の完璧主義

 最近のゲームは、凝ったキャラメイクができるものも多い。顔のパーツや体型、髪型に声などいじれる項目は多岐に渡り、位置や色はさらに細かく設定できる。その組み合わせはそれこそ無限に近いだろう。

 MMOというジャンルのゲームやモンスターハンターシリーズにもそのようなシステムがあり、自分自身でデザインしたキャラでその世界を生きることができる。MMOの自由度にもモンスターハンターのアクション性にも興味はあるし、好物のロールプレイにもうってつけのゲームなのだろうが、未だにプレイしたことはない。その原因のひとつがキャラメイクだ。

 ほとんどの場合、作成できるセーブスロットやキャラクターの数は限られているか課金を要する。そして、キャラメイクには大なり小なり取り返しのつかない要素があるし、ゲームを始めてすぐに行うことになる。つまり、そのキャラと生きていくことを決めなければゲームを始めることができないのだ。

 ロールプレイをするにしても、ひとつに絞ることは難しい。男女で違うデザインになる装備もそれを後押ししている。ゲームを始める前だから判断材料は限られており、いざ始めてから後悔するのではないかと不安になって決められない。

 方向性を決めてもいじれる項目が多すぎてどこをどうしたものか迷うし、いじっている内に新しい候補も出てくる。どこが完成かもわからなくなってくる。自由度が高すぎるせいで、かえって決まらない。そうこうしている内に考えるのが面倒になり、投げ出すのだ。

 このようなことはキャラメイクに限った話ではない。料理は買い物のせいで挫折し、セールは吟味している内に終わる。今書いている他の記事も、登場人物のコードネームが思いつかずしばらく書いていない。

 悩んだところでどうせ後悔することも、完璧な決断などできないことも、くよくよしているのは自分くらいということもわかっている。それでも後悔しない決断をしようとか完璧な状態にしようとかしていることを、私は自分で「無能の完璧主義」と呼んでいる。

 無能の完璧主義はとても厄介だ。最初からできるはずもないのに完璧を求めるものだから終わりがないし、そうやって悩んで行動に移さないこと自体が損だという事例も少なくない。これは機会損失というらしい。

 今思えば、塾にいた頃に質問しなかったのもきっとそうだ。中学受験にせよ大学受験にせよ、周りの者たちはみんな先生に質問しに行っていた。もちろん、私は彼らのほとんどより頭が悪かったが、結局質問に行くことはほとんどなかった。中学受験の頃はまだ多少マシで、最後の方には何度か質問した。とてもわかりやすく教えてくれたと思う。

 教えてもらわずに済むほど頭が悪かったのではなく、教えてもらってもわからないと思っていたのでもない。行かなかったのはどこがわからないかわからなかったからだ。きっとそういう生徒も少なくはないのだが、どこを質問すればいいかわかってから行こうとする内に行かずに終わった。

 言うまでもなく、そこで自分で勉強することもないから成績は上がらない。さらにわからないことが増えて、それでも質問しに行かないからそれが繰り返される。どうにかなったからよかったものの、もっと賢く生きることはできたはずだ。塾にいることの大きなメリットのひとつでもあっただろう。

 そして、これは就活でも繰り返されている。何もしていないから次々に来る講座や説明会のどれに行けばいいかわからず、限られた時間をどのインターンへ使うべきかわからないから応募すらできない。そうして知識も経験も身につかないまま、行動に繋がらない焦燥感だけが残されて今に至る。

 入試もそうだったが、就活はきっと機会損失が特に大きいものだ。高校の先生と交わした「きっと就活で痛い目見ますね」「わかってるじゃん」という会話が、非常に現実味を帯びてきている。