ウルリヒトゥレタス

皐月川納涼床

[2021] 第13次中間報告

高校の頃、受験校を決める基準のひとつとして資格を考慮したことがあった。特に明確な進路はなかったが、資格はあっても腐りはするまいと安直に考えたのだ。

結局、資格ではなく難易度と適性によって受験校を選んで今に至るが、合格後に初めて学部の概要を調べたところ、当時考えてはいた司書の資格を取れることが判明した。「行けるところではなく行きたいところへ行け」という予備校や学校の教えは間違っていたのだ。

資格取得までの過程には様々な段階が存在し、現在は必要単位の取得に追われている。指定された授業の単位をすべて揃えることで次へ進める仕組みだ。

そうして受講した中に、図書館学に近そうな授業がある。シラバスによれば、図書館のシステムや出版業界、資料区分などが範囲だという。期末も授業で学んだことを使ったレポート形式らしい。

しかし、その裏面にはこの授業のルールと題した項目があり、提出期限超過は受け取らないだのの後に「けじめをつけたいので授業前後に挨拶をする」とあった。挨拶は好きにすればいいと思うが、わざわざ明記するあたり相容れない。ちなみに、教員も忘れたのか現在ではまったく行われていない。薄っぺらいエゴの押し付けはやめて欲しい。

座学が何度かあった後、数回に渡って場所をPC教室に移して授業が行われた。読書課題と題されたもので、課題文に対する自分の意見を文章として書き、グループでそれぞれの文章を読んでディスカッションした後に改めて書き直すのだ。ディスカッションは本来会話で行いたいところだが、情勢を考慮して掲示板へのコメントに留めるという。

結果として同じ教室にいる者たちが掲示板で会話するという光景が出来上がった訳だが、オンラインだったらブレイクルームで会話できたのではないのか?心配なく会話できるという強みを捨ててまであえて対面で行う意義はどこにあるのか?不信感は募る一方だ。

また、他人から届くコメントも「参考になりました」や「共感しました」のように中身のないものばかりだ。時間もたいして与えられず、私からのコメントも似たり寄ったりだったからこれに関して批判する気はないが、これを材料にブラッシュアップをする意味がどこにある?

私は下書きが苦手だ。思考マップも苦手だ。書き始めてから考え、考えながら書くことしかできないし、それでどうにかなってきた。ゆえに、このブラッシュアップというものが苦痛でしょうがない。わざわざ短い時間で不完全なものを書き、後で加筆する意味がわからない。

この授業へは図書館学を学びに来た。厳密に言えば単位だけあれば用はないが、似たようなものだ。なのに、実際にやることは文章の書き方だった。しかも、さぞ高等なテクニックを伝授して頂けるのだろうと思えば、教員が得意そうに語るのは構成を考えろだの主張には根拠を付けろだのと大学受験の小論文講座で聞いたようなことばかりだ。初歩的なことだ、友よ。

そして、いざ文章を提出しても満点のA+で返ってくる。「厳しめにしてあります」というコメントにも改善点は書かれていない。私が受ける必要はあったか?

無意味な読書課題が終わると、いつの間にやら期末レポートの提出が近づいている。テーマをひとつ決める必要があり、それを国会図書館データベースで検索するのだが、シラバスには「ヒット件数が1000件では多いし20-30件では少ない」としか書かれていない。もうちょっと絞れないか?

その中間報告として各自が決めたテーマを提出して教員がそれにコメントする回があったが、教員の知るテーマには「多そう」、知らないテーマには「少なそう」というコメントしか付けられず、ちっとも参考にならない。意見を述べる際にはその確固たる根拠がなければ説得力がないと偉そうに教えた者と同一人物だとは到底思えない言動だ。クソ授業アワード2021はこれで決まりかもしれない。